人に好かれる話し方

人に好かれる話し方





最近喋ってて自分のことを「こいつうぜぇな」って思うことが増えた。


というのも自分語りだったり自慢だったりが多い上に相手が興味もない、尺も長いという有様で会話が大盛り上がりすることがないなと。



一体どうしてこうなってしまっているのか、人に好かれる話し方や話題ってどんなものなのか考えていきたい。









僕は自慢が大好きだ。


努力でもなんでも、それらを鼻高々に語って認めてもらった時の形容しづらい快感はみんなも味わったことがあるだろう。


自分は空気は読めない人間ではないと自負しているが、自分の自慢が受け入れられてない環境でも話し続けることすらある。


そもそも自慢とはどういうものなのだろうか。









自慢にできる話というのはある程度定義が存在すると思っている。

大きく分けて二つ



◯誰にでもできることではないこと

◯少なくとも自分の努力が絡んでいること










◯誰にでもできることではないこと



例えばコンビニでお茶を買って、


「お茶買ったぜスゲェだろ!」


と言われてもそれは自慢としての効果は薄く何の意味もない。一般水準の都民であれば、コンビニはどこにでもあるしお茶を買うくらいのお金もあるだろう。



自慢する視点からすると、受け手の


「俺だってできる」


が一番不愉快だ。

要は他人には容易にできないことを自慢するからこそ自慢の価値がある。

誰にでもできる話を自慢にしても面白くないし「そんなこと自慢されても」と思われるのがオチである。










◯少なくとも自分の努力が絡んでいる


これも文字通り。

まず先に例外を言ってしまうが「運」の自慢も存在する。


「宝くじあたったぜぇ~」

「妹いるぜぇ~」


などは自分の努力が一切絡まないことに関する自慢だがこの記事ではそこにはあまり重点を置かない。


というのも自慢とは結局承認欲求、他人へのマウント、感情の共有などが目的だが「運」の自慢はそれが少し弱い。宝くじがあたったところで受け手は「いいなぁ」くらいにしか思わず、話し手も宝くじにあたった事実が嬉しいだけでその自慢自体に快感はない。


しかし努力が伴う自慢なら相手に受け入れられた時に承認欲求が満たされて大きな快感につながる。










まとめると


「他人には容易にできないことを努力して成し遂げだ」


話こそ、最高に自慢に適した形だと言える。









では自慢する人は「努力して他人にはできないことをやったスゴイ人」なのではないか?









要はそういうことである。

受け手がスゴイと思うかは別として話し手はスゴイ人だと思われたい、もしくは自分で自分の事をスゴイ人だと思っている。


ここが自慢が嫌がられる最大のポイントで、人はスゴイ人ぶられるとマウントを取られる感覚に陥り気持ちの良いものでは決してない。適切な自慢をしたとしても、得られるのは尊敬であって対等な友情ではない。


女性は男性の年収自慢などの話を非常に嫌う(EveEve参照)。しかし男は女性からの尊敬を受けたいがためにその話を自慢する。それが女性の求める対等な関係と食い違うことによって嫌悪感が生まれる。




よく女性は自慢が嫌いな理由を「面白くないから」と言うが、そうではなく下に見られたりすることがたまらなく不快なのだ。













ここまで自慢はどういうものか、自慢がどのように嫌われるかを個人的な意見を基に解説したが、会話に自慢は入れるべきではないのだろうか。自分の話は話題としてふさわしくないのか。






まず話題について


そもそも誰かと会話をするときにどんな事を話題にするだろうか。全て自分のことではないだろうか。


「最近どう?」みたいな話題では、それは明らかだが、例えば映画。


映画を見たとして、その感想を人に伝えるとき、それは「映画の話」ではなく「僕が映画を見た話」である。


ストーリーをただ解説するのは対人会話ではイケてない。帰ってwikiでも読んだ方がまだマシだろう。


その映画についてどう思ったのかがやはりメインであり、そこでの内容は映画よりもその人自身にピントが合わせられている。最後に必ず、面白かったつまらなかったなどの感想、つまり自分の意見を言うだろう。


対人で何か話題を探ったときには自分の話しか基本的には存在しない。または相手の話を聞く、それに対して意見を述べたりする。それが会話である。











まとめると

話題とは全て自分の話、自分語りである。





自分語りしか存在しない会話の中で、ではどういう話が相手にウケるのだろう。



多くの人は共通の話題、趣味が大事という。


個人的にはこの意見には反対である。



極端な話、合コンにマリアシャラポワ(元世界ランク1位の美人テニスプレイヤー)が来たとしよう。


「わー!僕もテニスやってるんですよ!ボール打つの楽しいですよね!」


などと会話を広げて距離が縮まるだろうか。

人生をテニスにかけてきた人間と部活程度の人間は、こんなにもレベルが違っても「テニス」というキーワードだけで繋がれるだろうか。






大切なのは共通の趣味ではない。共通のレベルである。例えば、映画がデートの定番なのは男女共に映画に関して素人だからだ。


映画関係者と映画デートしたらどうだろう。「あの演技があそこのカメラワークが美術が」などと専門的な話をされでもしたら単純にストーリーを楽しみに来た一般人とは話が合うわけがない。





ジャンルは何でもいい。とにかく誰かとの会話を楽しむためには相手と同じ水準の話である必要がある。

それが世間がよく言っている「共通の趣味が大事」ということなのだ。同じ水準でないと、自慢の定義によってマウントが発生してしまうのだ。


もちろん全てを同水準にすることは不可能だしそれはそれで面白みもない。

ただあらゆることにおいて一方のレベルが高い、低いという状況では楽しい関係は絶対に生まれない。



オタクがアニメやゲームをやって仲良くなれるのはすごく良い例だ。アニメやゲーム、映画などもだが努力があまりいらないので同じ水準で話しやすい。当然その中にも努力を重ねた廃人というレベルの違う人種もいるがやはり廃人は廃人でコミュニティを形成するし彼らの使う「エンジョイ勢」という言葉には1ミリもloveはない。同じ目線で話せるかが非常に大切だとわかる、わかりやすい例である。








まとめると

楽しい話題=同じ水準の話 

楽しい関係=対等な関係








ここまでの話を踏まえて自分の事を考えてみよう。


ボルダリングパルクールなどのマイナースポーツに打ち込み、やった事もない人間達に永遠語る。

海外留学の良かった話やなんならを海外に行ったこともないような人間に永遠語る。




水準が違うのは明らかな上、

「誰にでもできることじゃない」「努力が絡む」を満たしているため意図していなくても自慢になってしまうのだ。


当然楽しい会話になるはずなどない。









やはり相手によってある程度同水準で話せる話題を選び、そこから会話を広げていくことが良い関係を築く上で大切に思う。しかし理想はやはり自分の好きな事を同水準で話せる人間がいることだ。






また映画だったり、素人層が多く、努力なしに楽しめる趣味を広げるのも良いかもしれない。







最近まで自分は「話しすぎるなぁ」と思っていたが相手が興味ないことを「話しすぎる」のであってもしかしたら相手の参加しやすい会話ならたくさん話してもいいのかもしれない。






会話において伝え方や日本語力も大事だが、相手に適した話題を繰り出せることが、話の上手い人間の定義の1つなのかもしれない。