人生における成功とは

人生における成功とは




少し長めの記事になる。


今回のメインテーマは運動神経だったり彼女だったり仕事だったり熱中できる趣味だったりがメインだ。



タイトルで「人生における成功」と言ってはいるもののここでは人生の結果のことではない。最終的にその人がどのくらい偉大なことを成し遂げだなどではなくその一瞬をどれほど楽しめているかを基準にしている。





今僕は好きなスポーツを楽しんで、海外で勉強した英語をはじめとするたくさんのことや、大学で少し勉強したIT系のことを活かせる仕事に就く予定だ。客観的にみるとうまくやってると思う。でも全く充実感がない。あまり楽しめていない。






最近身の回りで起こったことについてまず語っていきたい。


前回記事を読んでる人なら知ってくれていると思うがボルダリングにハマっている。最近はパルクールにも興味があり素人なりに練習したりしている。










ボルダリングパルクールなどに限らずだが大学に入ってからよく言われるようになった言葉がある。





「運動神経いいね」





特に、それこそボルダリングパルクールなど、自重が軽いことを活かせるスポーツに関しては自覚があるくらいにはデキると思っている。







謙遜でも何でもないが運動神経は決してよくない。

中学生の頃、足の速さはクラスで下から2番目だったし、チーム決めでジャンケンで勝った人が選んでチームを決めるやつでは大体最後の方まで残っていた。


ただそれでも小学1年生、いやもっと前から父親にラケットを握らされて大学3年生まで真剣にテニスを続けてきた。単純にその辺の人間とは身体を動かす経験が違う。才能ではなくただの積み重ねなのだ。







もちろん運動神経に関して言われて悪い気はしない。

スポーツへの適応が高ければそれだけそのスポーツにも熱中できるしモチベーションも維持できる。





では運動神経は人生の瞬間を楽しむ上でどれほど大切なものだろうか…











僕には一応彼女がいる。

もう「彼女います」と言うのすら恥ずかしいレベルで愛されてなさを感じているし自分でもなんでこんな学もないし努力も大してしないし時間にもルーズだし何より全く俺のことなんか考えていない人間と一緒にいるのかわからない(酷い言い方ごめんなさい)。そもそもたまに電話や連絡するくらいでほとんど会わない。(海外行ってた俺も悪い)

もう向こうの中では終わってるのかもしれない。




まぁ要は何一つうまくいってない。




どーでもいいやと考えつつも人生が充実していると思えない原因の一つであることは間違いない。


いや、これが全てと言っていい。

もう本当に最近の悩みの全てはコイツやポーランド人の女の子だったりイタリア人だったりでそれだけでそれぞれ愚痴や惚気ブログを書いていたい。

この子個人の話ではなくただ愛されたい。





パートナーや自分を愛してくれる人間の存在は人生を楽しむ上でどれほど大切なものだろう














僕には6個下の弟がいる。来年度から高校3年だ。



性格はかなり僕とは違う。

プライドが異常に高く、無口であんまり自分の事を話さない。


弟には彼女がいて、話を聞いている限りめちゃくちゃうまくいっている。前カノと別れて2週間で別の人と付き合ったり、結構モテるみたいだ。また、1年間カナダに行っていたこともあり、ちゃんと聞いたことはないがおそらく僕よりも英語もできる。










そんな弟がついこの間荒れに荒れた。

部屋の机をひっくり返し手当たり次第モノを掴んで投げつけていた。

なんでも、体育の時間に運動神経が悪いだとチビだのバカにされたことが死ぬほどムカついたらしい。







これが解せない。

自分がモノに当たるタイプの人間ではないからこの行動が理解できないのもあるが、


「そんなことどうでもよくないか?お前にはかわいい彼女がいるじゃんか」


というのが素直な意見だった。











運動のセンスはそんなに大事なものだろうか。


ボルダリングをやろうよと未経験の人間に声をかけても「ちゃんとやってる人とはあんまり行きたいくない」と言われたり、彼女にアスレチック的なところに行こうと提案しても「そういうとこはもっと運動神経いい人と行けば?私多分すぐ疲れちゃうから全然楽しめないと思うよ」と煙たがられることがすごく増えた。






その程度のものに大して感情が高ぶるのが理解できなかった。体格に関してだって、ボルダリング、特にパルクールではチビでよかったと思えることも結構ある。


何よりちゃんと話を聞いてくれる彼女がいるじゃないか。








「体育」という科目が存在する以上運動神経の比較は免れないもので、そこにコンプレックスを抱くのは理解できる。隣の芝は青いし、他人が持っていて自分が持っていないものに大して嫉妬を持つことは仕方ないことかもしれない。





どうして自分の持っている物や才には目もくれず、持っていないものばかりにフォーカスしてしまうのだろうか。


自分が優れているものにフォーカスできればもっと人生を楽しく過ごせるのではないか。








タイムラインでオタクを見かける。

ゲームやアニメに熱中して騒ぐオタクだ。1ミリの嫌味もなく、最近はこういうオタク達が羨ましい。




というのも自分も元はゲームやアニメに熱中し、仲間と騒ぎ散らかす人間だった。それがどれほど楽しいことか知っている。






ただ今は何故だかコンテンツにハマれない。

自ら進んでそのコンテンツを知っていこうという気にならない。


作品をおススメしてくれる友達はいるが、彼らが僕のボルダリングの誘いを手放しで乗らないのと同じようにそれらに魅力を感じない。




人生感の話に戻る。

本当にオフェンシブな意味は全くないが、オタクはどうしてオタクなんだろうか。

「オタク」という単語の意味は少しずつ変化をしているが、一般人からするとやはり、頭にバンダナを巻きリュックを背負うアニメが好きなキモいやつのイメージ以外何物でもない。



では何故そんな逆風の中でも彼らは「オタク」なのか。純粋にコンテンツだけでなく仲間とのコミュニケーションだったりもっと言えば「オタク」としての人生を楽しんでいるのではないか。



個人的な見解では彼らは一般人と思考に一線を画し、自分の人生を楽しく生きている気がする。

彼らは彼女持ちに対して机をひっくり返したりすることもないし運動ができないからといって手当たり次第モノを叩きつけるようなことはしない。(ネットに書き込むなどのコーピングはあるかもしれない)

つまり他の人間のことをあまり気にしていない。



オタクというものに向かい風が存在する以上、オタクであることに誇りや充実感を持っていないと絶対に続かないのだ。





ここから人生におけるヒントを見つけることができるかもしれない。

極端はよくないが自分の世界、価値観をもって生きることが大切なのではないだろうか。そして、その世界で自分の納得できる自分を持っていることが大切なのではないか。




隣の芝が青いなら自分のは全て刈り取って盆栽でも始めればいいのだ。



無理に芝にこだわって中途半端な(例えばオタクでもウェイでもないような)存在になるよりもずっと精神的に楽だし、きっとある方面に特化して自分を磨ける人間の方が人としてやっぱり魅力的で周りの人間もついてくるんじゃないだろうか。




女の子やカーストの高い人間の顔色を伺うのではなく、自分のやりたいことを(常識の範囲内で)やる。そういう人間の方が真の意味で評価されるのではないだろうか。



結局人生は自分がどういう人間かではなくて自分がどう考えるかが、充実しているかしていないかの違いにつながっている。完璧な人生など存在しないのだから自分なりにその人生を楽しればそれは成功なのではないか。



悪いところばかりに目を向けず、前向きに努力ができる人間になりたい。