承認欲求とスポーツ

承認欲求とスポーツについて



ただの愚痴を書くと下書き段階で気持ちよくなってパブリッシュしないので少し問題提起っぽく書きます。









ボルダリングにハマっている。かれこれ1年はやっている。

長く続けていたテニスやめ、なにか他のスポーツがしたいなと思っているところにAくんからの紹介で始めてドハマりした。



先日英国某所(この言い回しカッコいい)のジムで行われたコンペティション60人中10位になることができた。平均身長は女子選手含め175cmは下らない、ゴリゴリマッチョの中でこの結果はすごくないだろうか。

もうこの自慢だけでこのブログを終えてもいいくらいだ。







そんなボルダリングだが最近少し寂しいと思うところがある。


ツイッターに動画を投稿したり友達に送ったりした時の反応が気持ち良くない。







始めた当初は元々運動をやっていた上に体重が軽いこともありかなり順調にグレードを上げて行った。

派手で動画映えする課題(ジャンプしたりするやつ)も多くなりsnsに公開することも増えた。当初はその派手な課題に周りのみんなは、「すごい!」と言ってくれたものだった。


最近ではそれがない。

今回はこの「すごい!」について考えていきたい。










一般的に考えて始めて3ヶ月で撮った動画と1年で撮った動画、どちらが「すごい!」かは明白である。


ではなぜ彼らは始めて間もない前者に「すごい!」を使い、後者には何も言わないのか。僕という人間がボルダリングをやっている意外性に対して「すごい!」と言っているのだろうか。



そうではない。理由はいくつかあるかもしれないが、1番しっくりくる理由は、彼らは「何も考えていない」ことだと思う。


これは侮辱ではない。彼らが深い思考に至らない原因は2つ。


◯そのスポーツを競技レベルで知らない。

◯そもそもスポーツにおいての努力への理解がない


どういうことか詳しくみていきたい。












最近羽生選手が金メダルを取った。スポーツではないが藤井棋士6段に昇格したりなどが騒がれることが多い。彼らの功績に対して大衆は何というか。






「すごい!」







一体このニュースに対して「すごい!」という奴らはこれらの競技の何を知っているのだろうか。まず、スケート靴を履いた経験がある奴が何人いるのか、盤の目の前で2,3時間の1局の時間正座をできるやつが何人いるか。






そういう人間に「彼らの何がすごいの?」と聞くと「行動が早い早くないですか?」と返ってくるのがオチである。良くて「世界で日本人初の」や「前人未到...」など記録に対しての「すごい!」である。



(もちろんこの世界では結果(記録)を出さなければ評価されない。当然の事だし理解もしている。ただの愚痴なのでその辺は勘弁してほしい。

というか、英国某所(はぁ~)で行われたコンペでの結果では自分的にはボルダリングでの努力が初めて結果に出たものだったのでみんなにも理解してもらえるとも考えていた。)



要は浅い賞賛コメントをする人間は記録にしか目が行かず、選手がそこまでにどれほどの努力をしているか、どういう点が評価を受けているのかまで思考が届いていない。何も考えてないやつが他人を褒めてはいけないわけではないが、それらはあまりにも薄っぺらい。だから僕は個人的にオタクのスポーツ批評が死ぬほど嫌いなのである。









松岡修造という元プロテニスプレイヤーをテレビで見ることが増えた。その人間性もメディア露出に貢献していることは間違いないが錦織圭選手という素晴らしい選手の登場、テニスというさほどメジャーではなかったスポーツが取り上げられる速度に、まともにコメントができる人間が彼くらいしかいなかった。

彼の発言を聞いていると「すごい!」を連発しているが、そのあと「何がすごいって」と必ずその理由を挙げている。時間の許す場では試合でのワンシーンをピックアップして「この状況でこういうショットを選択できるのはものすごい練習に基づいた自信なんですよ」と語る。


有名選手が出てきたことによる、突然の「テニスよいしょ」に対して、真の凄さや魅力を伝えたくてたまらないのだろう。アスリートとして非常に共感が持てる。











ときに、僕が体育会テニス部に所属していた時は、周りの人間は変化を絶対に見逃さない。例えばフォームを変えたり、練習後筋トレをしたり努力方面での変化である。友でありライバルである彼らはそういったことに非常に敏感だ。そして的確かつ深いアドバイス、練習への協力を惜しまない。

そういうスポーツを知っている人間からのアプローチは何も知らない奴らの「すごい!」よりも生産的でなおかつ承認欲求を満たすこともできるのではないか。知識のある人間から受ける賞賛や指摘こそ、真の承認欲求の形としてふさわしいのではないか。



承認欲求ツールであるところのツイッター

実際に部活に所属していた頃は、テニスの動画をツイッターにあげて「どう?すごいでしょ?」と言ったことは一度もない。薄っぺらい「すごい!」など欲しくなかったし部内でモチベーションの維持が完結していたからだ。
















一体どうして中身のない「すごい!」に頼らなければいけなくなってしまったのか。


そしてそれが得られたところで何だというのか。


スポーツの正当な評価とは何なのか。


スポーツをやる意味とは。



ボルダリングは大好きだが、この世界に自分以外の人間がいなかったら絶対にやらない。他の人ができない課題をできるようになる時に達成感を感じるからだ。






他人からの評価ありきのスポーツ。この先スポーツと向き合っていく中で正当かつ満足のいく評価を受けるためにはどうすればいいかもっと考えて取り組んでいくべきなのかもしれない。snsはその形としてあまり適していないのかもしれないが、しばらくそれはやめられそうにない…

またスポーツを見る側も「すごい!」だけでなく、何がどのように「すごい!」のかをもっと考えても良いのかもしれない。受け手側が知識をつけることで選手は励みになる上に、TV放送などもっと深くまで楽しむことができるはずだ。





















はぁ~~~可愛い子に「すごい!」って言われてぇ~~