鬱ブログ

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アンケートで1番投票があったのでこのタイトルで書きます。



始めに言っておくと僕はメンヘラではありません。











最近すごく心が苦しくなる悩みがあります。

女の子関係というか、僕は基本的にその事でしか病みません。勉強とかスポーツとか仕事とか、そこそこ上手くいっている上に、それらはちゃんと努力に見合った結果がくるので、ダメでも「もっと頑張らないと」とポジティブに向き合うことができるからです。



ただ女の子や人間関係ってあんまりそういうのがなくて、やっぱり相性だったりルックスだったりそれなりに頑張ったからなんとかなるものでもないんです。




じゃ死ぬ気で努力したの?って言われるとそうではないと思います。最近気付いたのは、女の子にガツガツとアタックすることは努力でも何でもなくて、本当の努力っていうのは好かれる努力の事なんだなと感じます。







女の子に一生懸命声をかけて、努力したのに実らねぇって嘆くのはお門違いもいいとこだったんですね。この話をするとまた別の長い話になりそうなのでこんなもんで終わらせます。







前のブログでも言ったんですが、彼女の話がやっぱり1番重いところです。


今回はひたすら愚痴というよりは、何が辛いのか、なんで辛いのかを具体的に紹介していきたいと思います。僕はメンヘラではありません。







ある最近の例を1つ挙げたいと思います。


その子はインスタをやっていて当然フォローフォロワーの関係にあります。






ついこの間こんな投稿をしていました。


内容は、

女の子の友達とライブに行ってきた最高だった的な


もっと言うとそのアーティストさんに関しても少し説明がありました。


とある曲にどハマりし、そこからそのアーティストを好きになったそうです。






アーティストはZeddという人でどハマりした曲はClarityと言う曲です。


このアーティストはまぁ正直誰でも知ってるというか、この人の曲は絶対何個か聞いたことあると思います。





そんなClarity という曲ですが、サビの歌詞にこんなフレーズがあります。




If our love is tragedy, why are you my remedy?

If our love is insanity, why are you my clarity?


(私たちの愛が悲劇なら、どうしてあなたに救われちゃうの?

私たちの愛が狂ってるなら、どうしてあなたといると世界がハッキリ見えるの?)





意訳するとこんな感じだと思います。


このフレーズだけでハッキリと男性と吹っ切りたいけども心の奥ではその人が大好きで忘れられない女性のニュアンスが伝わってきます。





ここでの僕の思考はこうです。




(この曲が大好きなら多少なりともこの歌詞に共感してるに違いないそして「忘れられない男」は少なくとも俺じゃないつまりこいつには別に忘れられないような男の存在がいて、だからこそ俺に100%の愛をくれないんじゃないか…)







気分はドン底です。


起承転結の起と結だけ言うと、




「その子のライブ楽しかった投稿」「僕が病む」




ということになります。




内容が何であれ、とにかくこの子が投稿すると最終的に「僕が病む」結果になるのです。





「◯◯ちゃんと××行ってきた!」

(ふーん、そういうところ行きたかったんだ俺に全然そういう話してくれないし大体会うのはいつもカフェとかだし俺とは一緒に行っても楽しくないのかなその上俺に直接報告とかもしてくれないんだな…)


とかです。






これはほんの一例ですが、一度その子に不信感を覚えてしまうと、その子の投稿内容、投稿時間、既読や返信のタイミング、リプライでの友達とのやりとり全てに何か意味があるんじゃないか、そしてそれを全て自分にとって悪い意味に考えてしまい勝手に病むということが本当に多いです。




間接的な表現をすることが美徳とされるこの国で培われてしまった歪んだ思考、そんな状況に陥ってしまうと直接的な方法に逃げたくなってしまうのです。




不信感を覚え、全ての挙動に深読みをするようになると、ちゃんと「好き」って言ってくれないと本当にその人を信じられない気がしてきます。




こうなってしまうとドツボです。こっちがそういうことを確認しようとするとすごく嫌がられたり「重い」と言われたりします。連絡も希薄になってしまいます




そんなことまでわかっているなら直せばいいしその子を切ればいいと言われればそうなのですが、やっぱりたまにでも会ってくれて楽しく話せると最高にハイになってしまうんです。




完全に無視を決め込んでくれるならこっちの気も離れるのに、やはりそれをさせてくれないあたりが本当に苦しいです。








ちょっと引いた視点に戻ります。

そもそもなんで彼女というか、近しい異性が必要なんでしょうか。



女の子と一緒にいて何が楽しいのか少し考えてみました。


単純に可愛い子、綺麗な子を見ているのは心が癒されていいですよね。


一旦そういう要因を消した時、何を楽しんでいるのか自分を省みてみました。








最近連絡を取っている女の子大半、いや全員にボルダリングパルクールの動画を送りつけています。それぞれまぁイキり散らかしています。なんというか結局問題はそこで僕自身の目的というか楽しみ方がただ自分のやってることをイキってドヤる、つまり女の子を承認欲求の対象としか見てないっていうところに問題があるんじゃないかと思います。


(衝撃の事実を今日一緒に飲んだ子から聞いたんですけど、パルクール動画見せて「こういうのやってる男実際かっこよくね?」と聞いたら「別に() 怪我とか怖いし」って言ってました。ここ最近で一番ダメージ食らいました。)




そんなことばっかしてて人が離れて、「愛されてない」って嘆くのは相当ヤバいやつなのでは?っていう自覚は少しずつ出てきました。



運動は楽しいです。ほんとに心から好きなのですが、今運動をする1番の目的がそれをネタにイキることだったりsnsに投稿することになってる気がして辛いです。





承認欲求は生きる上で絶対必要ですが、やはり時と場所、頻度をわきまえないといけないなと感じました。




もっと人の話を聞けて広げたり盛り上げたりすることが今後の僕の人生において、恋愛面でも仕事面でも大事になってくるなぁと思ってはいるもののイキるのが生き甲斐なのでそんな悶々とした最近の毎日です。









とにかくデメリットしかない今の彼女との関係を終わらせることが目標です。まだ大好きなんで何も言いたくないんですけど、ほんとにそろそろ動かないと精神的にヤバいと思ってます。他のもっと自分を気にかけてくれる人を見つけてそういう人と一緒にいたいなって感じです。












とあるマッチングアプリで何人か会う約束とかしてるのでそこでは自慢やイキりじゃなくて、もっと好きなアーティストとか番組とかの話題を広げられたらいいですね。最近ずっと聴いてるClarityって曲とか、すっごい素敵な曲だし話題も広がると思いませんか?

https://youtu.be/IxxstCcJlsc

人に好かれる話し方

人に好かれる話し方





最近喋ってて自分のことを「こいつうぜぇな」って思うことが増えた。


というのも自分語りだったり自慢だったりが多い上に相手が興味もない、尺も長いという有様で会話が大盛り上がりすることがないなと。



一体どうしてこうなってしまっているのか、人に好かれる話し方や話題ってどんなものなのか考えていきたい。









僕は自慢が大好きだ。


努力でもなんでも、それらを鼻高々に語って認めてもらった時の形容しづらい快感はみんなも味わったことがあるだろう。


自分は空気は読めない人間ではないと自負しているが、自分の自慢が受け入れられてない環境でも話し続けることすらある。


そもそも自慢とはどういうものなのだろうか。









自慢にできる話というのはある程度定義が存在すると思っている。

大きく分けて二つ



◯誰にでもできることではないこと

◯少なくとも自分の努力が絡んでいること










◯誰にでもできることではないこと



例えばコンビニでお茶を買って、


「お茶買ったぜスゲェだろ!」


と言われてもそれは自慢としての効果は薄く何の意味もない。一般水準の都民であれば、コンビニはどこにでもあるしお茶を買うくらいのお金もあるだろう。



自慢する視点からすると、受け手の


「俺だってできる」


が一番不愉快だ。

要は他人には容易にできないことを自慢するからこそ自慢の価値がある。

誰にでもできる話を自慢にしても面白くないし「そんなこと自慢されても」と思われるのがオチである。










◯少なくとも自分の努力が絡んでいる


これも文字通り。

まず先に例外を言ってしまうが「運」の自慢も存在する。


「宝くじあたったぜぇ~」

「妹いるぜぇ~」


などは自分の努力が一切絡まないことに関する自慢だがこの記事ではそこにはあまり重点を置かない。


というのも自慢とは結局承認欲求、他人へのマウント、感情の共有などが目的だが「運」の自慢はそれが少し弱い。宝くじがあたったところで受け手は「いいなぁ」くらいにしか思わず、話し手も宝くじにあたった事実が嬉しいだけでその自慢自体に快感はない。


しかし努力が伴う自慢なら相手に受け入れられた時に承認欲求が満たされて大きな快感につながる。










まとめると


「他人には容易にできないことを努力して成し遂げだ」


話こそ、最高に自慢に適した形だと言える。









では自慢する人は「努力して他人にはできないことをやったスゴイ人」なのではないか?









要はそういうことである。

受け手がスゴイと思うかは別として話し手はスゴイ人だと思われたい、もしくは自分で自分の事をスゴイ人だと思っている。


ここが自慢が嫌がられる最大のポイントで、人はスゴイ人ぶられるとマウントを取られる感覚に陥り気持ちの良いものでは決してない。適切な自慢をしたとしても、得られるのは尊敬であって対等な友情ではない。


女性は男性の年収自慢などの話を非常に嫌う(EveEve参照)。しかし男は女性からの尊敬を受けたいがためにその話を自慢する。それが女性の求める対等な関係と食い違うことによって嫌悪感が生まれる。




よく女性は自慢が嫌いな理由を「面白くないから」と言うが、そうではなく下に見られたりすることがたまらなく不快なのだ。













ここまで自慢はどういうものか、自慢がどのように嫌われるかを個人的な意見を基に解説したが、会話に自慢は入れるべきではないのだろうか。自分の話は話題としてふさわしくないのか。






まず話題について


そもそも誰かと会話をするときにどんな事を話題にするだろうか。全て自分のことではないだろうか。


「最近どう?」みたいな話題では、それは明らかだが、例えば映画。


映画を見たとして、その感想を人に伝えるとき、それは「映画の話」ではなく「僕が映画を見た話」である。


ストーリーをただ解説するのは対人会話ではイケてない。帰ってwikiでも読んだ方がまだマシだろう。


その映画についてどう思ったのかがやはりメインであり、そこでの内容は映画よりもその人自身にピントが合わせられている。最後に必ず、面白かったつまらなかったなどの感想、つまり自分の意見を言うだろう。


対人で何か話題を探ったときには自分の話しか基本的には存在しない。または相手の話を聞く、それに対して意見を述べたりする。それが会話である。











まとめると

話題とは全て自分の話、自分語りである。





自分語りしか存在しない会話の中で、ではどういう話が相手にウケるのだろう。



多くの人は共通の話題、趣味が大事という。


個人的にはこの意見には反対である。



極端な話、合コンにマリアシャラポワ(元世界ランク1位の美人テニスプレイヤー)が来たとしよう。


「わー!僕もテニスやってるんですよ!ボール打つの楽しいですよね!」


などと会話を広げて距離が縮まるだろうか。

人生をテニスにかけてきた人間と部活程度の人間は、こんなにもレベルが違っても「テニス」というキーワードだけで繋がれるだろうか。






大切なのは共通の趣味ではない。共通のレベルである。例えば、映画がデートの定番なのは男女共に映画に関して素人だからだ。


映画関係者と映画デートしたらどうだろう。「あの演技があそこのカメラワークが美術が」などと専門的な話をされでもしたら単純にストーリーを楽しみに来た一般人とは話が合うわけがない。





ジャンルは何でもいい。とにかく誰かとの会話を楽しむためには相手と同じ水準の話である必要がある。

それが世間がよく言っている「共通の趣味が大事」ということなのだ。同じ水準でないと、自慢の定義によってマウントが発生してしまうのだ。


もちろん全てを同水準にすることは不可能だしそれはそれで面白みもない。

ただあらゆることにおいて一方のレベルが高い、低いという状況では楽しい関係は絶対に生まれない。



オタクがアニメやゲームをやって仲良くなれるのはすごく良い例だ。アニメやゲーム、映画などもだが努力があまりいらないので同じ水準で話しやすい。当然その中にも努力を重ねた廃人というレベルの違う人種もいるがやはり廃人は廃人でコミュニティを形成するし彼らの使う「エンジョイ勢」という言葉には1ミリもloveはない。同じ目線で話せるかが非常に大切だとわかる、わかりやすい例である。








まとめると

楽しい話題=同じ水準の話 

楽しい関係=対等な関係








ここまでの話を踏まえて自分の事を考えてみよう。


ボルダリングパルクールなどのマイナースポーツに打ち込み、やった事もない人間達に永遠語る。

海外留学の良かった話やなんならを海外に行ったこともないような人間に永遠語る。




水準が違うのは明らかな上、

「誰にでもできることじゃない」「努力が絡む」を満たしているため意図していなくても自慢になってしまうのだ。


当然楽しい会話になるはずなどない。









やはり相手によってある程度同水準で話せる話題を選び、そこから会話を広げていくことが良い関係を築く上で大切に思う。しかし理想はやはり自分の好きな事を同水準で話せる人間がいることだ。






また映画だったり、素人層が多く、努力なしに楽しめる趣味を広げるのも良いかもしれない。







最近まで自分は「話しすぎるなぁ」と思っていたが相手が興味ないことを「話しすぎる」のであってもしかしたら相手の参加しやすい会話ならたくさん話してもいいのかもしれない。






会話において伝え方や日本語力も大事だが、相手に適した話題を繰り出せることが、話の上手い人間の定義の1つなのかもしれない。

人生における成功とは

人生における成功とは




少し長めの記事になる。


今回のメインテーマは運動神経だったり彼女だったり仕事だったり熱中できる趣味だったりがメインだ。



タイトルで「人生における成功」と言ってはいるもののここでは人生の結果のことではない。最終的にその人がどのくらい偉大なことを成し遂げだなどではなくその一瞬をどれほど楽しめているかを基準にしている。





今僕は好きなスポーツを楽しんで、海外で勉強した英語をはじめとするたくさんのことや、大学で少し勉強したIT系のことを活かせる仕事に就く予定だ。客観的にみるとうまくやってると思う。でも全く充実感がない。あまり楽しめていない。






最近身の回りで起こったことについてまず語っていきたい。


前回記事を読んでる人なら知ってくれていると思うがボルダリングにハマっている。最近はパルクールにも興味があり素人なりに練習したりしている。










ボルダリングパルクールなどに限らずだが大学に入ってからよく言われるようになった言葉がある。





「運動神経いいね」





特に、それこそボルダリングパルクールなど、自重が軽いことを活かせるスポーツに関しては自覚があるくらいにはデキると思っている。







謙遜でも何でもないが運動神経は決してよくない。

中学生の頃、足の速さはクラスで下から2番目だったし、チーム決めでジャンケンで勝った人が選んでチームを決めるやつでは大体最後の方まで残っていた。


ただそれでも小学1年生、いやもっと前から父親にラケットを握らされて大学3年生まで真剣にテニスを続けてきた。単純にその辺の人間とは身体を動かす経験が違う。才能ではなくただの積み重ねなのだ。







もちろん運動神経に関して言われて悪い気はしない。

スポーツへの適応が高ければそれだけそのスポーツにも熱中できるしモチベーションも維持できる。





では運動神経は人生の瞬間を楽しむ上でどれほど大切なものだろうか…











僕には一応彼女がいる。

もう「彼女います」と言うのすら恥ずかしいレベルで愛されてなさを感じているし自分でもなんでこんな学もないし努力も大してしないし時間にもルーズだし何より全く俺のことなんか考えていない人間と一緒にいるのかわからない(酷い言い方ごめんなさい)。そもそもたまに電話や連絡するくらいでほとんど会わない。(海外行ってた俺も悪い)

もう向こうの中では終わってるのかもしれない。




まぁ要は何一つうまくいってない。




どーでもいいやと考えつつも人生が充実していると思えない原因の一つであることは間違いない。


いや、これが全てと言っていい。

もう本当に最近の悩みの全てはコイツやポーランド人の女の子だったりイタリア人だったりでそれだけでそれぞれ愚痴や惚気ブログを書いていたい。

この子個人の話ではなくただ愛されたい。





パートナーや自分を愛してくれる人間の存在は人生を楽しむ上でどれほど大切なものだろう














僕には6個下の弟がいる。来年度から高校3年だ。



性格はかなり僕とは違う。

プライドが異常に高く、無口であんまり自分の事を話さない。


弟には彼女がいて、話を聞いている限りめちゃくちゃうまくいっている。前カノと別れて2週間で別の人と付き合ったり、結構モテるみたいだ。また、1年間カナダに行っていたこともあり、ちゃんと聞いたことはないがおそらく僕よりも英語もできる。










そんな弟がついこの間荒れに荒れた。

部屋の机をひっくり返し手当たり次第モノを掴んで投げつけていた。

なんでも、体育の時間に運動神経が悪いだとチビだのバカにされたことが死ぬほどムカついたらしい。







これが解せない。

自分がモノに当たるタイプの人間ではないからこの行動が理解できないのもあるが、


「そんなことどうでもよくないか?お前にはかわいい彼女がいるじゃんか」


というのが素直な意見だった。











運動のセンスはそんなに大事なものだろうか。


ボルダリングをやろうよと未経験の人間に声をかけても「ちゃんとやってる人とはあんまり行きたいくない」と言われたり、彼女にアスレチック的なところに行こうと提案しても「そういうとこはもっと運動神経いい人と行けば?私多分すぐ疲れちゃうから全然楽しめないと思うよ」と煙たがられることがすごく増えた。






その程度のものに大して感情が高ぶるのが理解できなかった。体格に関してだって、ボルダリング、特にパルクールではチビでよかったと思えることも結構ある。


何よりちゃんと話を聞いてくれる彼女がいるじゃないか。








「体育」という科目が存在する以上運動神経の比較は免れないもので、そこにコンプレックスを抱くのは理解できる。隣の芝は青いし、他人が持っていて自分が持っていないものに大して嫉妬を持つことは仕方ないことかもしれない。





どうして自分の持っている物や才には目もくれず、持っていないものばかりにフォーカスしてしまうのだろうか。


自分が優れているものにフォーカスできればもっと人生を楽しく過ごせるのではないか。








タイムラインでオタクを見かける。

ゲームやアニメに熱中して騒ぐオタクだ。1ミリの嫌味もなく、最近はこういうオタク達が羨ましい。




というのも自分も元はゲームやアニメに熱中し、仲間と騒ぎ散らかす人間だった。それがどれほど楽しいことか知っている。






ただ今は何故だかコンテンツにハマれない。

自ら進んでそのコンテンツを知っていこうという気にならない。


作品をおススメしてくれる友達はいるが、彼らが僕のボルダリングの誘いを手放しで乗らないのと同じようにそれらに魅力を感じない。




人生感の話に戻る。

本当にオフェンシブな意味は全くないが、オタクはどうしてオタクなんだろうか。

「オタク」という単語の意味は少しずつ変化をしているが、一般人からするとやはり、頭にバンダナを巻きリュックを背負うアニメが好きなキモいやつのイメージ以外何物でもない。



では何故そんな逆風の中でも彼らは「オタク」なのか。純粋にコンテンツだけでなく仲間とのコミュニケーションだったりもっと言えば「オタク」としての人生を楽しんでいるのではないか。



個人的な見解では彼らは一般人と思考に一線を画し、自分の人生を楽しく生きている気がする。

彼らは彼女持ちに対して机をひっくり返したりすることもないし運動ができないからといって手当たり次第モノを叩きつけるようなことはしない。(ネットに書き込むなどのコーピングはあるかもしれない)

つまり他の人間のことをあまり気にしていない。



オタクというものに向かい風が存在する以上、オタクであることに誇りや充実感を持っていないと絶対に続かないのだ。





ここから人生におけるヒントを見つけることができるかもしれない。

極端はよくないが自分の世界、価値観をもって生きることが大切なのではないだろうか。そして、その世界で自分の納得できる自分を持っていることが大切なのではないか。




隣の芝が青いなら自分のは全て刈り取って盆栽でも始めればいいのだ。



無理に芝にこだわって中途半端な(例えばオタクでもウェイでもないような)存在になるよりもずっと精神的に楽だし、きっとある方面に特化して自分を磨ける人間の方が人としてやっぱり魅力的で周りの人間もついてくるんじゃないだろうか。




女の子やカーストの高い人間の顔色を伺うのではなく、自分のやりたいことを(常識の範囲内で)やる。そういう人間の方が真の意味で評価されるのではないだろうか。



結局人生は自分がどういう人間かではなくて自分がどう考えるかが、充実しているかしていないかの違いにつながっている。完璧な人生など存在しないのだから自分なりにその人生を楽しればそれは成功なのではないか。



悪いところばかりに目を向けず、前向きに努力ができる人間になりたい。






承認欲求とスポーツ

承認欲求とスポーツについて



ただの愚痴を書くと下書き段階で気持ちよくなってパブリッシュしないので少し問題提起っぽく書きます。









ボルダリングにハマっている。かれこれ1年はやっている。

長く続けていたテニスやめ、なにか他のスポーツがしたいなと思っているところにAくんからの紹介で始めてドハマりした。



先日英国某所(この言い回しカッコいい)のジムで行われたコンペティション60人中10位になることができた。平均身長は女子選手含め175cmは下らない、ゴリゴリマッチョの中でこの結果はすごくないだろうか。

もうこの自慢だけでこのブログを終えてもいいくらいだ。







そんなボルダリングだが最近少し寂しいと思うところがある。


ツイッターに動画を投稿したり友達に送ったりした時の反応が気持ち良くない。







始めた当初は元々運動をやっていた上に体重が軽いこともありかなり順調にグレードを上げて行った。

派手で動画映えする課題(ジャンプしたりするやつ)も多くなりsnsに公開することも増えた。当初はその派手な課題に周りのみんなは、「すごい!」と言ってくれたものだった。


最近ではそれがない。

今回はこの「すごい!」について考えていきたい。










一般的に考えて始めて3ヶ月で撮った動画と1年で撮った動画、どちらが「すごい!」かは明白である。


ではなぜ彼らは始めて間もない前者に「すごい!」を使い、後者には何も言わないのか。僕という人間がボルダリングをやっている意外性に対して「すごい!」と言っているのだろうか。



そうではない。理由はいくつかあるかもしれないが、1番しっくりくる理由は、彼らは「何も考えていない」ことだと思う。


これは侮辱ではない。彼らが深い思考に至らない原因は2つ。


◯そのスポーツを競技レベルで知らない。

◯そもそもスポーツにおいての努力への理解がない


どういうことか詳しくみていきたい。












最近羽生選手が金メダルを取った。スポーツではないが藤井棋士6段に昇格したりなどが騒がれることが多い。彼らの功績に対して大衆は何というか。






「すごい!」







一体このニュースに対して「すごい!」という奴らはこれらの競技の何を知っているのだろうか。まず、スケート靴を履いた経験がある奴が何人いるのか、盤の目の前で2,3時間の1局の時間正座をできるやつが何人いるか。






そういう人間に「彼らの何がすごいの?」と聞くと「行動が早い早くないですか?」と返ってくるのがオチである。良くて「世界で日本人初の」や「前人未到...」など記録に対しての「すごい!」である。



(もちろんこの世界では結果(記録)を出さなければ評価されない。当然の事だし理解もしている。ただの愚痴なのでその辺は勘弁してほしい。

というか、英国某所(はぁ~)で行われたコンペでの結果では自分的にはボルダリングでの努力が初めて結果に出たものだったのでみんなにも理解してもらえるとも考えていた。)



要は浅い賞賛コメントをする人間は記録にしか目が行かず、選手がそこまでにどれほどの努力をしているか、どういう点が評価を受けているのかまで思考が届いていない。何も考えてないやつが他人を褒めてはいけないわけではないが、それらはあまりにも薄っぺらい。だから僕は個人的にオタクのスポーツ批評が死ぬほど嫌いなのである。









松岡修造という元プロテニスプレイヤーをテレビで見ることが増えた。その人間性もメディア露出に貢献していることは間違いないが錦織圭選手という素晴らしい選手の登場、テニスというさほどメジャーではなかったスポーツが取り上げられる速度に、まともにコメントができる人間が彼くらいしかいなかった。

彼の発言を聞いていると「すごい!」を連発しているが、そのあと「何がすごいって」と必ずその理由を挙げている。時間の許す場では試合でのワンシーンをピックアップして「この状況でこういうショットを選択できるのはものすごい練習に基づいた自信なんですよ」と語る。


有名選手が出てきたことによる、突然の「テニスよいしょ」に対して、真の凄さや魅力を伝えたくてたまらないのだろう。アスリートとして非常に共感が持てる。











ときに、僕が体育会テニス部に所属していた時は、周りの人間は変化を絶対に見逃さない。例えばフォームを変えたり、練習後筋トレをしたり努力方面での変化である。友でありライバルである彼らはそういったことに非常に敏感だ。そして的確かつ深いアドバイス、練習への協力を惜しまない。

そういうスポーツを知っている人間からのアプローチは何も知らない奴らの「すごい!」よりも生産的でなおかつ承認欲求を満たすこともできるのではないか。知識のある人間から受ける賞賛や指摘こそ、真の承認欲求の形としてふさわしいのではないか。



承認欲求ツールであるところのツイッター

実際に部活に所属していた頃は、テニスの動画をツイッターにあげて「どう?すごいでしょ?」と言ったことは一度もない。薄っぺらい「すごい!」など欲しくなかったし部内でモチベーションの維持が完結していたからだ。
















一体どうして中身のない「すごい!」に頼らなければいけなくなってしまったのか。


そしてそれが得られたところで何だというのか。


スポーツの正当な評価とは何なのか。


スポーツをやる意味とは。



ボルダリングは大好きだが、この世界に自分以外の人間がいなかったら絶対にやらない。他の人ができない課題をできるようになる時に達成感を感じるからだ。






他人からの評価ありきのスポーツ。この先スポーツと向き合っていく中で正当かつ満足のいく評価を受けるためにはどうすればいいかもっと考えて取り組んでいくべきなのかもしれない。snsはその形としてあまり適していないのかもしれないが、しばらくそれはやめられそうにない…

またスポーツを見る側も「すごい!」だけでなく、何がどのように「すごい!」のかをもっと考えても良いのかもしれない。受け手側が知識をつけることで選手は励みになる上に、TV放送などもっと深くまで楽しむことができるはずだ。





















はぁ~~~可愛い子に「すごい!」って言われてぇ~~

女友達とは

友達と女の子について



前書き


最近気分が落ちて、なおかつ暇な時にブログ用の文章をぶわーって書いて、書いた時点でスッキリしてパブリッシュしない事が良くあります。


今回のブログに至っては自分の思考の整理もありますが、この考え方は同意を得られるものなのか、歪んでいないか、どこが間違っているのかなどなどのリアクションがあるととても嬉しいなという心持ちでパブリッシュすることにしました。


内容はかなり過激なもので気分が悪いなどがあればそれもフィードバックとしていただける分にはとてもありがたいです。


サラッとでも目を通してもらえると嬉しいです。










導入




「あなたの事は友達だと思ってた。」


女の子に告白をした際、残念な結果を貰う時に多く聞くであろうセリフではないだろうか。


個人的な話になるのでそもそも前提から「共感できない」となってしまうかもしれないが、僕はこのセリフを言われる事が少なくない。


結論から言うとこのセリフが本当に嫌いで嫌いで仕方がない。


これは「友達」と「異性」への考え方の相違からくる不快感であると感じている。


この言い方を文字通り受け取ると、このような女の子達は「友達」と「彼氏」を全くの別物と考えているのであろう。

「友達」というカテゴリに属しているから「彼氏」の枠には入れませんよ。という意味になる。



僕はこの考え方とは違う意見を持っている。

まず「恋人」というものは「友達」の延長にあるものなのではないか。ある程度の信頼関係の元、お互いをある程度知ったところでより関係を深めたくなるといういたって普通の考えだと僕は思う。しかし女の子の頭の中では、下手に「友達」で居過ぎたりするとどうやらそれ以降の道は断たれてしまうらしい。












異性の友達





異性の友達は必要だろうか?

何のためにそいつらは友達なのか?


個人的には異性の友達はある意味本当にいらないと思っている。理由は1つで男と遊んでいる方が楽だからだ。


例えばスポーツ。

女の子に怪我させてはいけない…(テニスなど)それなりに相手を気遣ってラリーを繋げなきゃいけない更衣も別、体格も別

例えば徹夜での遊び。

女の子は家に返すべきだろうか同じ部屋で寝たりして良いのか酒などを飲ませて変に下心を勘繰られないか

例えば一緒にいる時。

今日の機嫌はどうだろう今楽しんでるかなお腹痛くないかな


パッと思いつくだけでこれだけ気を使ってしまう。

これに関してはもうどうしようもないが、「異性」というだけで絶対にこういった点に気を使ってしまう。こういう事に関しては全く気を使わないよという人はそれはそれですごいが無頓着すぎるのもウケが良いとは考えにくい。


本当にいちいち気を使ってしまうのだ。


それに対して同性とのやりとりは自分の感情を常識の範囲内なら表にし放題だし本当に仲が良ければ気を使う必要がほとんどない。




同性の友達はただただ楽なのだ。考えるほど異性の友達なんて本当にいらないのではないかとすら思えてくる。



しかし、いる。

なぜならその先に「彼女」(でなくても何かしらの特別な存在)になる未来があるかもしれないからだ。

  




ある女が目の前に現れたとする。

「私は絶対にあなたとは付き合わないしエッチもしない。それでも友達になりたい。」

と言ってきたらどうだろう。

現実問題「いや、友達として仲良くやってればいつかワンチャンあるっしょw」と思うのが男だが、付き合える可能性0、ワンナイトすら0の「女友達」に果たして魅力があるだろうか。

  

「変な気を使わなくてええやん!」と思うかもしれないが欲張りな男は仲を深めていく過程でいつか「こういう付き合い方ができれば」という思考に必ずいきつく。


そういう人間に、残念ながら魅力はある。

だがそれを求めて努力をするのは完全に無駄なのだ。無駄な金、努力であり自己を苦しめる存在でしかない。そういう人間と「友達」できるだろうか?



(女友達は全くいらないという思考の人は、もしかしたらそういう努力が泡と消える事が怖い、億劫になるほど自信が無かったりの思考回路なのかもしれない)






先ほど上で言った話は、「女の子の友達は男の完全劣化」ということを言いたいわけでは決して無い。



スポーツの話をして楽しい子もいれば一緒に遊んで、一緒の時間を楽しく過ごして、尊敬すらできる子はたくさんいる。


要はこういう子達は「友達」になるわけだが、はたして「友達」であるが故に恋愛対象から外れるのだろうか?

僕はできればパートナーに選ぶなら一緒にいて楽しく、尊敬もできて、まさしく友達のような関係プラスαというのが望ましいと考えている。

つまり友達の延長の様な関係が良い。


それを恋愛対象ではない理由付けとして「あなたは友達だと思っていた」と、「友達」を原因にするのは少しおかしくないだろうか。


散々理論立てて言ったが、実際にこのセリフを使用する人間は対面の男を気にしてできるだけ傷つかない様にと、適当にこのセリフを言っているのかもしれない。が、あまりにも杜撰ではないだろうか。

ハッキリと「タイプじゃない」「生理的に厳しい」とでも言ってくれた方がもうそいつに無駄な労力をかけずに縁が切れてお互いに幸せてじゃないだろうか。


告白してダメ恋愛対象にはなり得ない女友達より先になり得ないそれって別にいらなくない?じゃもう声も金もかけなくていいや


という流れが振られたショックと辛さの中で時間をかけてでも構成されるのではないか。


「あなたの事は友達だと思ってた」

「そっかぁ…(友達ィ!?これから仲良くなればワンチャンあるってことォ!?告白して相手に意識させてからが始まりっショォ!)


という発想がいかに馬鹿で180度間違っているのかをようやく最近気づけたなと。ハッキリ言ってくれれば無駄にもがき苦しむ必要もなかったのにねとも思いつつ。








まとめ





あなたにとって付き合えない、ヤレない、もっと言うと抜けない(目の保養にならない)"女友達"の存在価値は限りなく0に近いのではないか。

つまり異性と交流を持つ時点で下心が無いなんて事は絶対に有り得ず、それを否定することすらナンセンスなのではないか。

男女共にこれに向き合い、「友達」などという言葉でお茶を濁すのはやめないかという意見である。








みなさんは異性の友達をどのような存在だと思っているのか、異性であるメリットとは、そもそも友達を性別という壁でぶった切ることに対してどうお考えでしょう。

反応くれるとうれしいです。


この考え方をベースにして、逆にどのようにすれば女の子の中の「男友達」の中から差別化して上に行けるか、男であるメリットをどのように活かすかについて考察が進んだりしたら、しょーもない独りよがりの自己満以下にしかならないけど、楽しそうですよね。



ここまで読んでくれた皆様に、当時18歳の哀れな某大学生の例をご紹介します。

こうならないようにしっかりと自分を持って生きましょう

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イギリス生活~中盤~

お久しぶりです。


イギリス留学も折り返しなので中盤を書いていこうと思います。






アレックスちゃんに「彼女がいるので」とフラれました。

まぁ今回は言いたい事全部出し切ったというか、呼びつけて三時間クソみたいな英語で口説き続けてもダメだったのでなんとなくスッキリしてます。

まぁ結構好きだったのでわりと辛かったです。


ちなみにこの件でグダグダ言い続けてアリーナちゃんには絶交されました。

これ以上友達でいるの辛すぎるからとかなんとか。





色々メンタル終わっていた僕を救ってくれたのはクライミングでした。


実はクライミング結構好きで靴も買っちゃうくらいにはやってたんですけど、イギリスのジムはめちゃくちゃデカくて広いんです。


結構登れる方なのでみんな話しかけてきてくれて気分転換にも、英語の勉強にもなってすごく有意義な時間でした。


楽しみすぎて月パスを買い、レッドブルで身体を騙し続けて週5で通った結果、腕がぶつけてもいないのに内出血だらけになり、終いには一番簡単なのすら登れないくらいにボロボロになったのでしばらくはお休みです。





学校での生活はかなりうまくいってます。

と言うのも卓球したり、クライミングの動画を見せつけたりして「運動できるキャラ」になりつつあります。運動できるとこっちでは男から卓球やろうぜとかジム行こうぜとかいろいろお誘いがきます。


あと耳も慣れてきてだいぶみんなとスムーズに会話できるようになってきました。


バーやジムで現地の人達と話し続けたおかげか、英語綺麗だよ~って言われることも増えました。




バーといえば、この国にではホモセクシャルがあまりにも多いことに驚かされます。


ホモセクシャルとは日本でいうホモのことじゃなく、レズも含んだ、つまるところ同性愛者のことです。



バーにはよくそういったカップルがきます。

中には£100(14000円くらい)を握らせてきて「僕の前でシコるだけで良いから」と迫ってきた人もいます。


ほんとにイカつい人だったので本気で組み伏せられたら何も抵抗できないんじゃ無いかと今までに感じたことのない恐怖を覚えました。





1人暮らしはかなり順調です。

自分に料理の才能があることにビックリして色んなものを作ってます。楽しい。


料理洗濯とかは全然問題なく、ただただ寂しいですね。

家に1人は本当に辛くなるのでよくバーに降りて客にタバコもらって吸ってます。



真面目な話に戻ると、日本でいうTOEIC的な、かなりデカいテストが近々あります。


正直このテスト受けるために今回は来てるようなものなのでめっちゃ緊張してるけど、ジムに行ってしまい腕の痛みに嘆く日々を送っています。


このテストでぼちぼちな結果を出せれば英国の永住権(いらない)だったり、英語圏各国での大学院の資格を得られたりと未来が広がるのでなんとかなんないかなぁという感じです。


テストが終わったらいよいよ遊べるというか、少し羽を伸ばせるのでイタリアに行こうと思ってます。

イタリア人の友達が結構いるので、その子たちに案内してもらいつつ美味しいもの食べれたらなぁとか


日本にいるとわからないんですけど、ヨーロッパ間の国外旅行って安いというか、イタリアには飛行機で往復3万円くらいでいけちゃいます。


せっかくなので行かなきゃ損ですよね。いっぱい写真とか撮ってこようと思います。





生活には適応しつつあるものの、英語の成長をさほど感じません。


英語勉強しにきてるので結構色んな事をしました。

例えばTwitterできるだけしないようにしたりとか、こっちにいる日本人避けたりとか音楽も日本のやつ避けたりとか、親からの連絡すらほとんど返してません。



なんか効果あったんでしょうかね。

言語を勉強するのって考えていたよりもはるかに大変みたいです。


友達の枠に関しては前に話したように、アジア人とヨーロッパ人で分かれてるので絶対にヨーロッパサイドにいようと決め込みそっちで仲良くしています。


ほんとに彼らは圧倒的に喋る、喋る、喋る

現状会話の内容についていくのがやっとです。


「喋るの好きなんだよね笑笑」とか日本ではほざいていてもふつーにこのザマなので英語以前に性格の問題もあるなと感じます。


「英語以前に」といえば、授業でディベートしたりするんですけど、経済とか地理とか文学とか芸術とか色々な知識がなさすぎて日本語でもそんなん話せないよみたいなテーマをよく話します。


この間アートがテーマなディスカッションで、「ピカソゲルニカね、あれはすごい。 え?それ以外知らない」みたいなことしか言えなかった時はもう恥ずかしくて死にたくなりました。




たった1,2ヶ月で無理なことはわかっていてもこれだけ辛い思いをして少しの成長しか得られていないことに苛立ちや焦りは隠せないです。



生活環境、人間関係、金、勉強、そして何より言語。

これだけのストレスと戦って一体何が得られるのかなぁ。まだそれが見えてこないってことはそこたどり着くための努力が足りてないってことなんだよね



最後に1つしょーもないけど嬉しいことを。

ヨーロッパの友達に

「私のクラスにも日本人がいて、テストはすごいできるのに話すともう、アクセントやばすぎて何言ってんのか全然わかんないの!でも元気の英語はちゃんとわかるよ!」

って言われました。

すっごく救われた感じがしました。ヨーロッパ組と無理矢理にでもつるんでて良かったな、と。


きっと成長はしてるので悔いのないように残りのイギリス生活を送りたいです。


やんごとなき仮定法

皆さんはsecond conditional またはthird conditional という言葉を聞いたことがあるでしょうか?


これは英語でif文を用いた文書のうち、日本語で「仮定法」と訳されています。


学校でちゃんとやったか、かなり怪しい部分かと思います。



今回はこの仮定法について解説していきます。










仮定法(second conditional)の基本構造は以下の通りです。


If + S + 動詞の過去形 , S + would (could)+動詞の原型


が基本になります。

仮定法にするときは時制を1つ過去に下げることを覚えておきましょう。


例文を見て行きましょう。


If I spoke English perfectly, I could tell you how I feel about you

(英語が完璧に話せたら、僕が君のことをどう思っているのか伝えられるのに)


このように、仮定法では現実では起こっていない現象を話す際に使われます。

上の例文からは、


現在の「私」は英語を完璧に話せない

故に「君」に想いを伝えられない


という事実が読み取れます。


文書は肯定文で書かれているため、勘違いが起こりやすいですが、意味が逆になっていることに注意しましょう。








仮定法(third conditional)




Third conditionalでは、過去の現象のifトーリーを話す際に使われます。


基本構造は以下の通りです。

If + S + had + 過去分詞, S + would (could) + have + 過去分詞


例文を見て行きましょう。


If I hadn't met you, I wouldn't have come to England.

(もし君にあっていなければイギリスには来なかっただろう)


今回は否定文です。ifで繋がれる2つの文書はどちらも過去に起こった現象であるとこがわかります。


この文書からは、

「君」には会ってしまった

イギリスには来てしまった

尚且つこれらの事実を後悔している


ということが読み取れます。

先ほど述べた通り、仮定法において、肯定文で書かれいてるものはパラレルワールドの話、否定文で書かれいてるものは事実なので注意しましょう。









仮定法(second and third conditional)




Second Thirdの複合です。

If文によって繋がれる2つの文書のうち、一方が過去の話、他方が現在の話になります。


例文を見て行きましょう。


If I had been born in Poland, I would be happier.

(もしポーランドに生まれていたら、もっと幸せだったのに)


この文書では前半の文はThird conditional、後半の文はSecond conditional で書かれています。

というのも、「生まれる」という話は過去の話であり、「幸せ」というのは現在の話だからです。


この文書からは

「私」は過去にポーランドに生まれていない

「私」は現在はあまり幸せではない


ということがわかります。


このように時制によって少し文書の意味合いが異なってきます。


仮定法をマスターすると表現が非常に豊かになり、よりネイティヴに近い会話ができるようになります。


(余談ですが、would havecould haveを見たまま発音するとネイティヴには通じません。

would've  (/wʊdəv/) と発音しましょう。

発音記号がわからない場合、eがひっくり返ったような、/ə/だけは覚えましょう。イギリス人が最も良く発音する音で、これが聞き取れる and 喋れるだけで会話が圧倒的に成立しやすくなります。)



仮定法は主に後悔している時、こうだったらなぁという時に用いられます。



重たい話や、失恋などの話題が豊富なあなた。

人生を嘆き、世界の不条理に不満を言いたいあなた。


「仮定法」がきっと強い味方になってくれるでしょう。








If I didn't have any friends or family, I would commit suicide😢